障害者虐待 防止意識根付かせたい(9月30日)
食事が遅いと首を絞め上げる。包装紙を食べさせて苦しむ様子を見て笑う―。いずれも障害者の施設で実際に起きたことだ。
障害者虐待防止法が10月から施行される。児童虐待、高齢者虐待、ドメスティックバイオレンス(DV)の各防止法に続き、障害者の人権保護にようやく光が当たる。
防止法は保護者や福祉施設職員、雇い主などによる虐待を発見した人に、市町村への通報を義務付けた。
市町村は自宅や施設への立ち入り調査や被害者の一時保護ができる。施設や職場の場合、都道府県と労働局がそれぞれ指導する。
虐待には身体への暴力だけでなく、性的、心理的、経済的暴力や介護放棄、放置などさまざまな類型がある。家族であっても当事者の財産を勝手に処分すれば虐待になることを、忘れてはならない。
事情が複雑で、虐待かどうかを判断するのは難しいケースもある。政府や自治体は何が虐待に当たるのか、具体例を示し、虐待に敏感な意識を根付かせたい。
障害者が家庭や施設で暴言や暴行を受ける例が後を絶たないが、表面化するのはごく一部だ。通報が義務化されれば実態を把握し、防止対策も立てやすくなるだろう。
閉ざされた空間で発生することの多い被害を障害者自ら訴え出るのは難しい。通報した職員が解雇などの不利益を受けないよう、義務付けたのは当然だ。
職員同士の身内意識もあり、通報に抵抗感があるかもしれない。だが、身近にいる職員がまず障害者の守り手であることを自覚してほしい。
自治体の役割も大きい。市町村に障害者虐待防止センターを設け、相談や調査に当たる。
適切に対応できるかどうかは人材育成にかかっている。市町村だけでなく国や都道府県もそのための研修に力を入れなければならない。
問題なのは、通報義務の対象から学校が外れたことだ。教育界が「学校内で適切に対応している」と反対したことが大きい。
教育現場では暴行やいじめがあっても隠すケースがある。学校を例外とするのは筋が通らない。
施行3年後の見直しが付則に盛り込まれたが、その際に学校を含める方向で検討すべきだ。
北海道障がい者条例は、学校での障害者への差別や不利益な扱いを禁止している。法の不備を埋めるために積極的に条例を活用してほしい。
これまで「しつけ」「指導」の名のもと、一部に体罰や暴言が容認される風潮があった。どんな目的であれ虐待は許されないことを、法施行を機に社会全体で共有したい。
(北海道新聞 2012.9.30付けより引用
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/408040.html)
このニュースを取り上げた理由として私はここで一つの告白を行いたい。
それは私自身、『広域性発達障害』という精神障害を持っているということである。それに気づかせるきっかけになったのは一昨年、仕事場で詐欺に遭った事だった。その際、私は親戚の従姉から精神障害の一つ『アスペルガー症候群』ではないかと指摘され、私が住む浜松市の発達障害支援センターの紹介を通じて大学病院の精神科で検査を受けた。その時に、『広域性発達障害』の傾向があるという診断を受けたのである。但し、私はまだ障害者手帳を取得していない。まだそこまで社会的に追い詰められているわけではないからである。
さて前置きが長くなってしまったが記事にも書いてある通り明日から障害者虐待防止法が施行される。社会的弱者にまた一つ光が当てられるわけだがその光はまだ範囲が狭いことも確かだ。その理由は我々日本人の中にある身内意識という悪弊だ。外からは『悪事』だとはっきり分かる事でも身内では『正義』とか『法』になってしまっている。それが江戸時代における鎖国政策や農民に対する五人組制度や大名監視制度で身内意識をひどくしてしまった。
もう一つは経済という視点からの障がい者は『何もできない』というレッテルにあると私は見ている、皆さんは94年に公開された映画『フォレスト・ガンプ』をご存知であろうか、無論フィクションではあるがタイトルと同じ名前の主人公フォレストは知能指数が低いながらも持ち前の脚力を生かして有名になったばかりか億万長者にまでなったではないか。あの映画は例え障がい者であろうともそれなりの能力を発揮できる機会さえあれば社会的に成功するというメッセージが含まれているではないか。最近で言えばパラリンピックでの活躍はどうか。輝かしい成績を残しているではないか。この二つの結果を見ようともせずに生産効率で障がい者にレッテルを貼るということは健常者の社会的怠慢であると同時にそのことを教えようともしない政府やマスメディアの怠慢でもある。
かつて北京でパラリンピックが開催されていた時、私はアメブロでこんなコラムを書いた。
パラリンピックはオリンピックの『おまけ』じゃない!!
我が親友が書いたコラムで『テレビを見ている我々にも責任がある』という一文があった。それでふと思ったのだがその欲望によって隅に追いやられているものがある、それが障害者達のオリンピックであるパラリンピックだ。今年は日本人勢も大活躍し私の住む静岡県からも金メダリストが出た。
ところがである、このパラリンピックを実況中継しているのがNHK教育しかないのである。他の民放はどうかというと全く取り上げていない、取り上げたとしてもニュースでのハイライトでしかやらないのである。『誰も見ない』ただそれだけの理由で…。
だが社会的に不自由している人たちがそれぞれの障害を抱えながらもここまで頑張っているのである。彼らの奮闘こそもっと称えられるべきではないのか、何故ならパラリンピックに出た選手達は他の障害者達にとって希望の象徴なのであるからだ。
これに続いて我が親友、小野哲はこんな意見も寄せた。
私の住む近くの町ではパラリンピックのテニスの金メダリストがいる。その彼にもなぜメディアは祝福しないのか。まさか、岩崎恭子にはでれでれじゃあるまいに。障害者を何とも思わない無神経ぶりには失望している。
今年のロンドンパラリンピックも本格的に報道していたのはNHK教育テレビだけで後の民放は簡単な試合結果だけだった。その行為が障がい者に対する無知となり我が親友がブログ『日々格闘記』9月10日のコラムで示した2ちゃんねるにおけるヘイトコメントがまかり通るのだ。
(先ほど示したコラムは下記のアドレスでご覧下さい
http://tetsuono123.seesaa.net/archives/201209-5.html)
政府もメディアももっと障がい者を知る機会となる施策を増やす必要がある。『知る』ことこそ社会的弱者を守りかつ強くすることができるのだから。それと各公的機関や医療・福祉施設との連携だ。縄張り・身内意識が根強く残っているようでは返って社会的弱者を殺すことになりかねない。
因みに私は最近、岡田尊司という人が書いた『発達障害と呼ばないで』という本を読んでいる。著者によれば例え先天的な発達障がいを持つ人であっても親が愛情のある育て方を行えばその障がいをプラスに変えることができるとのことである。当然、その反対に親が過剰な期待や虐待を行えば障がいが『障害』として当人の行動に出てきてしまうそうである。確かに最近この『発達障害』に社会が注目しているがこの言葉自体だけを周囲が安易に使ってしまっているではないのか、著者はこの本で警告している。それ故、私はこの本の影響(鵜呑みしているきらいがあるかもしれないが)で障害者手帳取得を注意深く考えている。
更に今回、自分の発達障がいを告白するきっかけになったのは我が親友の影響もあるがもう一人アメブロでメグレムリンという女性が書いているブログも告白する勇気をくれた。この二人には大いに感謝の意を表したい。
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